センスフィールドBlog

脱衣と羞恥

2011年06月20日

裸体に対する恥じらいが、人間にとって生得的であるかといえばそうではない。先に紹介したカイザーも指摘しているとおり、裸体への羞恥心は民族によって異なるし、恥じらう身体の部位も異なっている。この点について、文化人類学者たちは、興味深い報告をしている。たとえば、『グシイーケニア農民のくらしと倫理(松園万亀雄、弘文堂、1991)』では、ケニアのグシイ社会における身体露出への羞恥感について述べられている。それによると、20世紀初めには局部のみを山羊革で覆うだけだった彼らが、欧米文化との接触により、衣服で身体を覆う習慣ができると、その覆った部分が新しく恥の対象となっていったというのだ。当初は性器の露出のみがタブーであったものの、恥の領域が衣服の領域に伴って拡大したわけだ。同様のことが、バリ島の住民たちに関しても報告されている。30年代のバリ島では上半身裸で過ごす女性が多かったのだが、その後洋風化か進むにつれてブラウスを着るようになり、50年代になると、女性の胸が露出している写真が極度に減ってくる。また、クバヤという総レースの上着を羽織る習慣もあったが、これが、だんだん透けなくなってきて、その下に着用しているブラジャーが見えなくなるといった変化が起こっている。これらも、アウターウェアで隠し始めたことによって、羞恥心が生まれ、見えることを恥ずかしがるようになった一例と思われる。このように、身体への羞恥は衣服で覆うことによって生じると考えられる。恥ずかしいから衣服を着だのではなく、衣服を着たから恥ずかしいのだ。つまり、恥ずかしいのは「裸体」ではなく、「脱衣」ということになる。極端にいえば、人間の生身の身体にそもそも性的刺激性はないのかもしれない。ところが、身体を布で覆い隠したことで、その意味が変化する。人前で着ている衣服をわざわざ脱ぐことが、性的な行為の準備を意味することになる。それが、周囲の他者の警戒心や非難を呼び起こす。だから、通常、私たちはむやみに外で衣服を脱いだりしない。